宮迫博之さんのファミリーヒストリーでは、ご先祖がキリシタン大名大友宗麟の家臣だったことが判明しました。
 そもそも宮迫家は大分県大分市下郡中央の出身。
 この地には10軒ほどの宮迫家があります。この宮迫家、もともとは大分市下郡神ヶ迫から発祥しました。かつて神ヶ迫には大分社(大分宮・大分大明神・大分神社)という由緒正しい神社がありました。この神社は大分県という県名の由来にもなったという神社で、中世には豊後国(大分県)の一宮(国内で一番格上の神社)として栄えました。この神社の前に山に挟まれた迫地(谷あいの土地)があり、神社(宮)の前にあるので「宮迫」と呼ばれていました。この宮迫の地に住み着いた家が宮迫姓を名乗ったのです。
 日本人の苗字の由来を調べると80%以上が同一の地名から発祥しています。その苗字の発祥地を探し出すことがルーツ解明の大きな手がかりとなりますが、宮迫家の場合は、この大分社の前にあった 「宮迫」地名が発祥地ということになります。

 宮迫家の家系図も紹介されました。
 所蔵していたのは大分市歴史資料館。 ここに所蔵されている寛延4年(1751)作製の『下郡中系圖萬由緒記』に宮迫家のことが書かれており、それによれば初代を宮迫宗清といい、戦国時代には地元の大名大友宗麟に仕えていました。この宗清か、その子四郎右衛門のとき、大友家が改易となったため、宮迫家は下郡中央へ移住して帰農したといわれています。
 宮迫博之さんは、この武士宮迫氏の血を引いているのです。
 『下郡中系圖萬由緒記』という系図本はほとんど知られていない貴重な文献です。こういう記録が地元の郷土博物館に眠っていることがあるので、ルーツを調べるときには、必ずご先祖ゆかりの記録や文書があるかどうかを問い合わせてみましょう。

 お父さんが二度も人命救助をしたという話も感動的でした。

 なお宮迫博之さんの相方、蛍原(ほとはら)徹さんの苗字も珍しいですね。日本に20名以下しかいないでしょう。由来は地名発祥と思われ、ご先祖は蛍が棲む清らかな川が流れる原野に住んでいたのでしょう。石川県や静岡県、北海道、大阪府に蛍原家があります。