浅野忠信さんの本名は佐藤忠信さん。
 源平時代、源義経に仕えて四天王といわれた武将と同姓同名です。佐藤忠信奥州藤原氏に仕えた佐藤一族で、兄の継信も義経四天王の一人に数えられています。ルーツは第38代天智天皇の重臣藤原鎌足の流れをくむ武家藤原氏・藤原秀郷将軍の子孫といわれています。苗字の解説本では秀郷の末裔である藤原公清が皇居を警備する将校・左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられたことを記念して「左藤」と名乗り、苗字は人が使うものなので人偏を加えて「佐藤」と称したと書かれていますが、全国に200万人近くいる佐藤さんが、すべて佐藤公清の子孫とは到底思えないので、佐藤公清は佐藤さんにとっては神話上の人物と考えるべきでしょう。ただし「源氏車」「下り藤」を使う佐藤さんの系図は、まず例外なく佐藤継信・忠信兄弟を始祖と仰いでいますので、浅野忠信さんの家がこれらの家紋を使っていれば、やはり精神的なルーツは佐藤兄弟ということになるでしょう。

 忠信さんのファミリーヒストリーは母方をさかのぼりました。
 忠信さんの母方の祖母・浅野イチ子は広島県の芸者置屋の家に生まれました。広島県出身で浅野というと、広島藩主浅野氏を連想しますが、藩主浅野氏の一門がたとえ明治維新後とはいえ芸者置屋を営んでいたとは考えづらいので、浅野イチ子と藩主浅野氏は関係ないと思います。

 イチ子は満州で特急「あじあ」号の給仕長の男性と結婚しますが、8年後に離婚。終戦となって横浜に引揚げ、そこでアメリカ軍横浜司令部で料理を担当していた米兵・ウィラード・オバリングと出会い、結婚しました。そして順子(忠信さんの母親)が生まれましたが、オバリングには帰国命令が下ります。オバリングはイチ子を連れてアメリカに帰ろうとしますが、イチ子が拒んだため、しかたなく離婚して単身帰国しました。その後、オバリングはケンタッキー州で2人の男の子を育てていた年上女性と再婚し、子供はもうけず1992年に亡くなりました。実の子は順子だけだったのです。テレビでは順子・忠信親子とオバリングが育てた連れ子の男性2人が感動の出会いを果たすシーンが印象的でした。

 ところでアメリカ兵の情報を調べる方法としては、
ナショナル・パーソナル・レコード・センター(人事院レコードセンター)があります。同センターはアメリカ国立公文書館に保管されている退役軍人や国家公務員の個人情報を管理している機関です。ほぼ1940年代以降の記録が整理されていますので、オバリングなどの進駐軍兵士の帰国後の情報を探すには最適な場所です。ただし最終情報が退役時の住所である場合が多いので、ここで調査が完結するとは限りません。

 民間の情報機関としては
アンセストリー・ドットコム(ancestry.comがあります。1983年に設立された家系図情報提供会社で、会員数は200万人を超え、その人たちが約4.100万家の家系情報を同社のサイトに登録しています。またアメリカの国勢調査、婚姻記録、入国記録、移民記録、教会や学校の登録名簿、納税記録、兵役記録など多様な記録情報を公開しており、収録人数は110億人といわれています。戸籍制度のないアメリカでは祖父母のことを調べるのも大変です。そこでファミリーヒストリーに興味のある人はこういう会社の会員となって、自分の親戚を探し出すのに使っているのです。日本語の紹介記事も載せておきます。

 オバリングのような帰国した進駐軍退役軍人の足跡を追うときにも、アンセストリー・ドットコムのような会社は大いに威力を発揮します。最近では
DNA調査も導入されました。これは自分のDNA情報を登録して、そこから肉親を探し出すというサービスです。捨て子や養子が実の親や兄弟をこのサービスで見つけたというエピソードが報告されています。

 日本のアンセストリー・ドットコムとしては「みんなの家系図」があります。このサイトへの登録がますます拡大し、アメリカ並みのデータベースが構築されれば、除籍・旧土地台帳・過去帳とともにファミリーヒストリーを調べる上で欠かせない情報源となるでしょう。

 浅野忠信さんのファミリーヒストリーは日本の戦後史と密接に関係していて、大変に興味深い内容でした。