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~誰でもできる簡単家系図作成講座~

カテゴリ: 珍しい苗字のお話

 日本で一番苗字の読み方が難しいアナウンサーは日本テレビの水卜麻美さんでしょう。知っている人は「みうら」と読めますが、知らない人は「みずと」「みと」と読んでしまいます。

 この苗字の発祥地は香川県で、さぬき市寒川町と仲多度郡多度津町に数軒いるだけです。麻美さんも出身地は千葉県市川市ですが、父方のルーツは寒川町のお寺といわれています。そして本人いわく、「水卜は『水で占う』という意味で、遠く室町時代(1338-1573)のご先祖が水で占いをしていたことにちなむ」と話していました。たしかに卜は「占い」のことで、古代に占いを専業としていた家は卜部(うらべ)といわれていました。ただし卜部氏が占いに使っていたのは生き物の骨。亀の甲羅(こうら)がもっとも多く、鹿の骨も使いました。この亀の甲羅を焼いて、割れたひびで占うのです。そのひびの形が卜という漢字の由来となりました。

 寒川町にはかつて天台宗で、現在は真宗本願寺派に属している寺院があります。このお寺が麻美さんのご先祖のお寺だとすると、お寺の住職には苗字がなかったので、明治5年(1872)に近代最初の戸籍である壬申(じんしん)戸籍が作製され、日本人全員が苗字を登録したとき、新しく苗字を創作しました。お坊さんの苗字は仏語や仏具にちなむ独特なものが大半ですが、水卜家の場合は、水を利用して占いをしていたことから「水卜(みずうらない)」で「水卜(みうら)」としたのでしょう。
 天台宗の僧侶がかつて占いをしていたことはよく知られています。麻美さんのご先祖は、よく当る水占いで檀家たちの悩みを解決していたのかも知れません。

 なお香川県の苗字を解説した本としては、『香川県の姓氏』(田中貴一/著 田中貴一 1991年)があり、香川県立図書館などに所蔵されています。ご先祖が香川県出身の方は図書館相互貸借を利用して、最寄の図書館に取り寄せるとよいでしょう。
 またご先祖が御三家水戸藩の支藩で、水戸黄門の子孫が藩主だった高松藩(香川県高松市)松平氏の藩士だったという家は「高松藩士由緒録」を参考にするとよいでしょう。さらに詳しく調べたいときには、この「高松藩や松平家の資料について」という問合せに回答した図書館レファレンス事例詳細が役に立ちます。

  

 女優の榮倉奈々さんも珍しい苗字です。
 生まれは鹿児島県肝属郡肝付町岸良。そこにまだご親戚の方がお住まいになっているそうです。
 ところで、この榮倉という苗字。大変に珍しいものです。数年前の電話帳を見ると岸良には、奈々さんのご親戚と思われる家が6軒ほど載っていますが、すべて「栄倉」で、「榮倉」の登録はありません。もともと現在、岸良に住む栄倉一族の戸籍上の表記は「榮倉」と思われますが、現在では「栄倉」を使っているのでしょう。

 榮は栄の異体字で、意義は「さかんな」「はなやかな」です。まさに奈々さんにふさわしい文字です。
 岸良の榮倉(栄倉)さんは、薩摩藩の門割(かどわり)制度に由来します。
 門割制度とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度です。そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられ、門の頭である名頭(みょうず)とその配下に置かれた名子(なご)がいました。門の多くは血族から始まっているので、名頭は本家、名子は分家という場合がよくみられます。この門は集落の一ヶ所にまとまって住み、定期的に領主の命令で耕作地が交換されました。これはある門が不作地を長年にわたって耕作する不公平をなくすための措置です。

 岸良の門に榮倉門がありました。榮倉という門名の由来は、自分たちの倉庫が永遠に栄えるように、という願いを込めたものでしょう。鹿児島県の門名には栄国門など、「栄(榮)」文字を使ったものがほかにもあり、薩摩人にとって「榮」は好きな文字であったことが分かります。
 奈々さんのご先祖は榮倉門に属していた農民でした。
 そして明治5年(1872)に近代最初の戸籍である壬申(じんしん)戸籍に苗字を登録するとき、榮倉門の榮倉をそのまま苗字にしたのでしょう。

 門割制度については国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで『旧鹿児島藩の門割制度』 が公開されています。また鹿児島県人のルーツについては『鹿児島県姓氏家系大辞典』が参考になります。ほかご先祖が薩摩藩士だったという家は『さつまの姓氏』をご覧になるといいでしょう。この本には薩摩藩士1050姓の系図が収められています。ただし地方に住んでいた郷士に関しては、記載漏れも多いので、あわせてご先祖が住んでいた地域の郷土誌を読むことも大切でしょう。

 10歳からテレビに出演しているという本仮屋ユイカさん。
 本仮屋と書いて「もとかりや」と読みます。ご本人は 東京都の出身ですが、祖父は鹿児島県の人。薩摩隼人です。2000年ごろの電話帳を調べてみると全国で登録は23軒。そのうち11軒が鹿児島県に住み、なかでも多いのが霧島市霧島大窪の5軒。この場所が本仮屋一族の故郷と思われます。

 本仮屋とは薩摩藩の歴史用語で 代官所のこと。薩摩藩は領内の各地に外城(とじょう)と呼ばれる小城下町を作りました。これを外城制度といい、外城は麓ともいわれます。この麓の武家屋敷に住む藩士たちを統率していたのが御仮屋、または地頭仮屋と呼ばれた役所に勤務していた上級武士たち。

 そういう役所が置かれた場所に本仮屋という地名が付けられ、役所が無くなったあとも地名だけは残りました。彼女のご先祖は、その本仮屋という地名に住み着いて本仮屋という苗字を名乗ったのでしょう。あるいはご先祖に麓の御仮屋に勤務した人物がいたのかも知れません。

 鹿児島県は 維新後に県令(知事)となった大山綱良が、薩摩藩庁から県庁が引き継いだ藩政時代の文書を廃棄処分したため、完全な藩士名簿が残されていません。そのため本仮屋家が薩摩藩士だったかどうかを調べるのは困難です。

 薩摩藩士の家系をまとめた『さつまの姓氏』(川崎大十著)と『角川姓氏家系歴史人物大辞典 鹿児島県』にも本仮屋という藩士がいたという記述は見当たりませんでしたので、武士ではなかったかも知れません。

 武士だったかどうかは別として、大変に少ない苗字ですから、これからも家を絶やさないでもらいたいものです。 

 NHKの朝ドラ『ちりとてちん』 で初主演を果たし、いまではテレビですっかりおなじみの貫地谷しほりさん。
 彼女の苗字も少ない。彼女は東京都の出身ですが、父方のルーツの地は 広島県東広島市西条町寺家(じげ)。2000年の電話帳では全国に貫地谷姓の登録が7軒しかなく、そのうち4軒が寺家に集中しています。この寺家こそが、全国にいる貫地谷一族の故郷なんです。

 寺家は西条盆地の北寄りにあり、この地が鎌倉の永福寺の荘園(私有地)だったことから寺家と呼ばれるようになりました。地名は南北朝時代(1333-92)から記録に登場し、熊谷・毛利・宍戸・尼子・黒瀬・粟屋・阿曽沼・出羽・児玉・石井氏と領主が変わってゆきました。江戸時代(1603-1867)になると広島藩浅野氏の支配地となります。明治初期には501軒の家があったと記録に見えますから大きな村落です。

 さて貫地谷姓ですが、一般的に〇〇谷という苗字は屋号系といわれています。たとえば秋田県の加賀谷・能登谷、青森県の三国谷などは、いずれも商家出身といわれ、出身地+屋を谷に変えて苗字にしたもの。加賀は石川県、能登は石川県の能登半島、三国は福井県の三国湊です。それらの地から北前船の交易などで秋田や青森に移り住んだ家がこういう苗字を名乗りました。
 貫地谷もこの法則でいくと商人で、元々は貫地屋ということになりますが、商人の屋号で貫地という例を聞いたことがありません。ただし貫地地名+屋ならあり得ます。

 貫地谷姓を地名発祥と推測すると二つの仮説が成り立ちます。一つは漢字から推理した説、もう一つは読み方を重視した説です。
 まず漢字から推理すると、貫は中世の貫高制と関連しているでしょう。貫高制とは、ある耕地から徴税される年貢を銭に換算した単位のことをいい、静岡県磐田市壱貫地や新潟県三条市三貫地新田などという地名が各地にあります。もし貫地谷の貫地がこれらの地名と同じ意味であれば、貫地谷とは、一貫文の銭に換金できる農作物が採れる谷あいの土地という意味になります。一貫を米に換算するのは年代や地域によってばらつきがありますが、米1石3斗~10石の間になります。これが一貫地の全部の収穫量ではなく、そのうち税として支払われていた米の量と考えるべきでしょう。
寺家の周辺に貫地という地名があり、そこ出身の商人が貫地屋と名乗り、それが貫地谷に変わった可能性があります。


 また「かんじや」という読み方にこだわると、古い日本語の大和言葉で「かん」は「山が崩れた場所」のことをいい、「じ」は「ぢ」で土地や場所のこと。「や」は「やつ」で小さな谷です。これをつなげて地形にすると「山が崩れてできた谷間」ということになります。そういう場所を貫地谷と名付け、そこに住んでいた人が貫地谷と名乗ったという考え方です。

 どちらが有力かは微妙な感じですが、前者のほうが由来としては面白いと思います。このように苗字の由来をいろいろと推理するのは楽しいことです。

 なお、彼女の「しほり」という名前も変わっていますが、これは漢字の栞に由来するそうです。しかし人名漢字に栞がなかったため戸籍には使えず、姓名判断の占い師に相談して「しほり」になったそうです。ちなみに現在は人名漢字に栞がありますので使えます。

  

 透明感のある女優、剛力彩芽さんの苗字も珍しい。
 2000年の電話帳をみると 全国に12軒だけ。そのうち9軒が三島市に密集しています。彼女の家もこの地の出身。もともとは「郷力」で、明治5年(1872)に近代最初の戸籍である壬申(じんしん)戸籍が作製されたとき、戸長役場に出向いて、「苗字はごうりき」と言ったところ、戸籍吏が「剛力」と書いたので、そのまま登録したといいます。
 このような例は全国にあって、小野という家がやはり「小福」と書かれたため、小福よりは幸福のほうがいいと思って、「いいえ幸福です」と言い直して幸福姓になったという伝承があります。

 そもそも「ごうりき」とは地名です。剛力家が住んでいた静岡県三島市谷田はその昔、三島神社の神領だった場所。そういう土地は神戸と書いて「かんべ」「ごうと」「こうべ」などと呼ばれていました。谷田の三島神社領は「ごうと」といわれていたと思われ、それが「ごうとの地」ということで「ごうとち」とまず変化します。

 戦国時代(1467-1568)になると、谷田は小田原北条氏の支配下となり、三島神社の神領はごくわずかとなり、そのわずかに残った神領が「ごうとち」と呼ばれ、さらに「ごうりき」と転化したのでしょう。その「ごうりき」地名に江戸時代(1603-1867)の村人は「郷力」の文字を当てていました。しかしこの郷力地名。極めて小さい地名なので記録にも地図にも登場しません。村人の間だけで呼ばれていた地名です。もしかすると郷力という文字も無かったかも知れません。

 「ごうりき」地名に住んでいた彩芽さんのご先祖が、「ごうりき」に郷力という文字を当てて苗字にしようと役所に行ったところ、はからずも剛力の文字が使われてしまいました。でも、強そうな良い文字なので、そのまま使うことにしたというわけです。

 ネットでは鳥取県発祥の強力姓や愛知県発祥の高力姓が変化したものという説も唱えられていますが、強力姓・高力姓と剛力姓では分布が異なっています。剛力姓の近くに強力・高力姓が散見されるのならその可能性もありますが、私は無関係と考えています。

 苗字のルーツを探るとき、史上著名な氏族に結び付けて考えるのは注意しなければならないことです。実際にはそういう有名な氏族とはつながらず、地元の地図にも載らないような極小地名を苗字にした家が多かっただろうと私は考えています。

 剛力彩芽さんの家は南朝の後醍醐天皇から賜姓されたという強力姓や 第50代桓武天皇(737-806)の流れをくむ桓武平氏の子孫である高力氏とつながっていなくても、「大坂方面からやって来た平家の落人で、三島に住み着いて700年になる」という立派な伝承を持っている旧家です。 
 

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