里見浩太朗さんの本名は佐野邦俊。
 そして憲兵曹長だった父親亀一さんは山梨県南巨摩郡南部町井出の出身。この集落は大半が佐野姓で、佐野一族には古い家系図が残されていました。それによると初代は佐野出羽守(でわのかみ)光次という武将。
 光次は井出村を支配していた穴山氏に属し、武田信虎に仕えて佐野姓を賜り、天文11年(1542)に亡くなりました。その長男の伯耆守(ほうきのかみ)長吉は穴山梅雪に仕えて永禄12年(1569)に死亡。この長吉の子孫から水戸藩徳川氏・紀伊藩徳川氏・高松藩松平氏に仕えた佐野家が出ました。


 井出の佐野家については『甲斐国志』『峡中家歴鑑』『続峡中家歴鑑』などに記述があり、要点をまとめた文献としては『山梨県姓氏歴史人物大辞典』があります。さらに水戸藩士の系図は『水府系纂』(彰考館文庫)、紀伊藩士の系図は『紀州家中系譜並に親類書』(和歌山県立文書館)、高松藩士の系図は高松藩士由緒録が参考になります。
 

井出の佐野家の系図では長吉のあと下野守(しもつけのかみ)長光(武田信玄に仕えて1578没)―蔵人(くろうど)森次(讃岐守盛次)―忠一をへて内膳(ないぜん)重儀に至ります。重儀は駿河国下稲子(静岡県富士宮市下稲子)に住んで穴山氏に仕えていましたが、後に井戸村へ移って天正16年(1588)に亡くなりました。この重儀のとき主君武田・穴山氏が滅亡したため、帰農して農民になったのです。なお、井出の佐野家の系図は初代光次から6代重儀の死亡年間がわずか46年しかなく、代数が多すぎます。それを正すかのように、5代忠一を2代長吉の二男とする系図もあり、そのほうが代数的には妥当と思われます。


 この佐野氏については『姓氏家系大辞典』に「新編常陸国志に『佐野。水戸の家譜に多し。甲州の佐野より起こる。
(佐野の地は甲州の南方、河内領という、冨士山の西につきて、山中に佐野・下佐野あり)延宝6年(1678)、水戸侯の命にて、吏臣山縣源七が書きたる佐野譜にいう家説に『甲州佐野は信州諏訪氏より出たるを以て、家紋に梶葉を用いるという。世々忠の字を以て名とす』とあり」と。」とあります。

 この文章通り井出村の佐野家は代々「忠」文字を実名(諱。いみな)に使って名主(村長)を務め、12代目の勝三郎忠章に至りました。勝三郎は塩売買などをし資産が現在のお金で2000万円もある村屈指のお金持ちでした。その子が亀一、そしてその子が邦俊(里見浩太朗)さんです。


 ルーツは『佐野譜』に「信州諏訪(すわ)氏より出る」とありますが、井出の佐野家系図にも「諏訪小太郎」の名前が見えるので、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)諏訪氏の一族ということになります。ただしこの諏訪氏は第56代清和天皇(850-881)の流れをくむ清和源氏と血の交流があったため古い時代の系図は混乱しており、井出の佐野家の系図にも清和源氏の「源為公(平安後期の武将)」などが登場しています。

 家紋は梶の葉で、本家筋は「八角の内に梶の葉」を使い、里見浩太朗さんの家は「丸に梶の葉」紋を使っています。この梶の葉紋は諏訪大社の神紋であり、諏訪氏が好んで使った家紋でした。家紋からも佐野家が諏訪一族であることが分かります。
 

 テレビでは父亀一が井出地区の栄村尋常高等小学校を卒業後、近衛歩兵第二連隊に入隊し、昭和12年(1937)9月25日に中国山東省平型関で戦死するまでの軍隊生活が丹念に紹介されていました。これはテレビにも映っていた亀一の軍隊手牒(手帳)から知り得た情報でしょう。ほかに山梨県福祉保健部国保援護課から軍歴証明書も入手していると思います。


 ところで里見浩太朗さんは水戸黄門の2代目助さんと5代目光圀を演じていますが、3代目光圀だった佐野浅夫さんとは親戚です。里見さんの母親エツさんと佐野浅夫さんがいとこ同士なんだそうです。