久しぶりのファミリーヒストリーです。
 今回は演出家のテリー伊藤さんのルーツを探ります。
 本名は伊藤輝夫で、「テリー」の愛称は輝夫にちなむもの。実家は築地場外市場にある玉子焼き屋の「丸武」。ご先祖は千葉県山武郡横芝光町の出身とのこと。横芝光町の伊藤家といえば、小説『野菊の墓』を書いた伊藤左千夫が有名です。 左千夫は自身は千葉県山武市の生まれですが、母親のなつが新堀村(横芝光町新堀)の三木家から嫁いできて、左千夫の妻とくも上堺村(横芝光町上堺)の伊藤重左衛門の長女であり、横芝光町と深い縁があります。

 伊藤左千夫の家紋は抱き茗荷(みょうが)。神仏の加護を意味する冥加(みょうが)を植物の茗荷で表現したもの。三島由紀夫(本名は平岡公威)、向田邦子、北野武らが使っていますが、伊藤姓ではあまり使いません。もしもテリー伊藤さんの家も抱き茗荷を使っていたら、伊藤左千夫の家と遠い親戚かも知れませんが、残念ながらテリー伊藤さんの家では全国の伊藤さんがよく使う「下り藤」紋を使っています。
 
 そもそも伊藤という苗字は、伊勢国(三重県)や伊豆国(静岡県伊豆半島)に住み着いた第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の流れをくむ藤原氏が、国名の「伊」と藤原の「藤」を組み合わせて、創作したもの。伊勢の伊藤さんは藤原北家の流れをくむといわれる藤原秀郷将軍の子孫・伊藤基景の末裔とされ、伊豆の伊藤さんは藤原南家の流れをくむ工藤祐経の子伊東祐時から始まり、後に伊藤とも称しました。家紋は伊勢伊藤が「下り藤」「上り藤」をよく使い、伊豆伊藤は「庵(いおり)に木瓜」「木瓜」を多用しています。
 家紋から判断するとテリー伊藤さんのルーツは伊勢伊藤の一族でしょう。
 伊勢伊藤などの系図については『姓氏家系大辞典』に詳しく解説が書かれています。この辞典は約5万種の苗字について系図や来歴を解説したもので、系譜学を提唱した太田亮(あきら)の名著です。自分の家系に興味のある方は、ぜひご覧ください。

 番組では昭和11年(1936)の新聞記事が紹介されていましたが、自分のご先祖が関わった事件や亡くなったときの死亡広告など、新聞から得られる家系情報は豊富にあります。古い新聞記事の探し方は国立国会図書館の「新聞について調べる」を参考にしてください。また神戸大学附属図書館の新聞記事文庫も役立ちます。地方新聞は都道府県の図書館に所蔵されています。


 さて、今回はテリー伊藤さんの母親の実家鳥海(とりうみ)家から約250年前の古文書が出てきました。そこには「陰陽家」と書かれていました。陰陽家とは古代中国の「陰陽五行説」を用いて吉凶を占った人で、古くは安倍晴明 が有名です。京の朝廷には陰陽寮という陰陽道を統括する役所があり、そこの長官は明治維新まで晴明の子孫である土御門(つちみかど)家が務めました。この土御門家を頂点にして、江戸時代(1603-1867)には全国各地に陰陽家がいたことが知られています。その実体については『近世陰陽道の研究』などに詳しく書かれています。

 テリー伊藤さんの母親の実家鳥海家も土御門家から認可を受けた陰陽師でした。その名残は鳥海家の屋号「ねぎどん」に残されています。「ねぎ」とは神社の神主を意味する禰宜(ねぎ)のことです。
 鳥海家がある千葉県南房総市白間津には日枝神社があります。その祭りは「白間津のオオマチ」といわれ、陰陽道の思想が反映されているといわれています。天保年間(1830-43)の白間村の家数は145軒。村人は農業のほかにイワシやアワビ漁をし、明治以降になるとテリー伊藤さんの母鳥海なみ子さんの父米吉さんのように、カジキ漁をする人もいました。
 陰陽師だった鳥海家はこの村で現在では国指定無形民俗文化財となっている「白間津のオオマチ」と深く関わりながら、住民の求めに応じて吉凶を占っていたのでしょう。鳥海家のルーツは第50代桓武天皇(737-806)の流れをくむ桓武平氏の子孫と思われます。

 いずれにしてもご先祖が陰陽師とは、テリー伊藤さん、面白い家系です。